Useful Days
Kiss in the Dark
「っ、あ……、ジノ…!」
どうしてこんなことになったのか。
ジノ・ヴァインベルグは考える。
もうずっと、そうしていた。
額に汗がにじんだ。
組み敷いた体が大きく震える。
露になった項に、キスを落としてやる。
その身のしなやかさは、まさに神様に愛された人間なのだろう。
ナイトオブセブンである彼、枢木スザクの背を見つめながら、ジノは思う。
それなのに、いつも、何かを渇望しているように、不満気な瞳をしている。
同時に、すべてをあきらめたような、無気力な表情をしている。
いつの間にか、惹かれていた。
きっとはじまりは、あのとき。
*
「スザク?」
面白いイレブンが入った。
スザクと初めて出会ったときの、率直な感想だった。
それ以来、ジノはスザクに事あるごとに絡もうとしていた。
単純な好奇心と、半端な親切心が働いていた。
ラウンズに入ったころのスザクは、その鉄壁の仮面でさえ、少しでもつつけば壊れてしまいそうな、危うさを孕んでいた。
それがジノには気になって仕方無かった。
ジノは良くも悪くも、挫折を知らない人間だった。
たとえその経験がなくとも、他人を慮れる性質を持つ人間だった。
だからこそ、歪んだ経験というものがなかったとも言える。
スザクももしかしたら、そうしたジノの性格を無意識に感じ取っていたのかもしれない。
それにある種羨望を覚えながらも、懐いてくる彼の腕を振り払えないでいた。
ジノが夕食の時間を伝えるためにスザクの部屋を訪れたときのことだった。
前にスザクに言われたとおり、きちんとノックをした。
しかし、返事がないのでドアノブに手をかけた。
と、鍵がかかっていなかったので、ジノはそのままドアを開いた。
足を踏み入れて最初、その名前を思わず呼んでしまったのは、いないと思っていた彼の気配を感じたからだ。
部屋の中は暗闇に包まれていた。夏の夕刻であるのに、やけに暗い。
質素な部屋の中、カーテンは閉め切られていた。
空調の音だけがジノの耳に響く。その機械音は、なんだか冷たい。
「大丈夫か、お前」
ジノが聞いた。ソファに座っていたスザクが、その時初めて侵入者に気付いたようだった。
はじけたように長身の彼に目を向ける。
「あぁ、ジノか。どうした?」
「いや、もうそろそろ夕飯だから……」
「そう、か」
スザクがソファの肘掛にもたれながら、虚ろに目を伏せた。
ジノはあまり見たことのない彼の表情に、言い知れぬ違和を感じた。
「スザク?」
もう一度名前を呼ぶ。
暗闇の中、彼はいったい何をしていたのだろうか。
何を考えていたのだろうか。
スザクは答えないので、ジノは彼の隣に座った。
いつもいるあの黒猫は、どうやら出かけているらしい。
「あぁ、後で行くから。」
沈むソファでジノの存在に気付き、スザクは彼に先に行くように促した。
踏み込ませない、そういう態度というよりは、まだ戻ってこれない、そんな様子。
なんだか、痛々しかった。
「いや、いい。待っている」
「え?」
「待っている」
スザクが戻ってくるまで。ちゃんとこちらに、戻ってくるまで。
ジノの強引性に驚き、スザクが顔を上げた。エアコンの音が鳴る。それは、骨が軋む音に似ている。
ジノはほとんど無意識に、その細い体を抱きよせていた。
いつもしているスキンシップとは、どこか違う。
スザクもそれは感じ取っているようで、小さく震えた後、けれど払いはしなかった。
「なんのつもりだ」
「……」
「おい、ジノ」
「繋ぎとめている」
「は?」
「お前が、帰ってこれるように」
ジノは腕の力を強める。肩口に触れていた彼の唇から、微かな吐息が漏れた。
「何言ってるんだよ、」
「わたしも、よくわからない」
困ったような顔をしたら、スザクはぷっと吹き出した。それからふっと、真摯な瞳でジノを見つめた。
「ジノ、君は……僕を醜いと思うかい?」
「え?」
「いや…、いい」
スザクは視線を外した。
段々と視界が慣れてきていて、その微かな表情の変化が見て取れた。
泣きそうだ、と思った。
彼は否定を求めているのだろうか、肯定を求めているのだろうか。
分からない。ジノは悩んだ。彼の内情を知らないジノに、それを擁護する権利はないと思った。
その瞳に宿る暗い過去が、喪失を含んでいることは明らかだった。
なんと言っても戦争だ。誰にだってある、悲しみと苦しみだ。
彼は逃げなかった。もしくは逃げた。闘いという、軍隊という道へ。
それを後悔しているとでも、言うのだろうか。
白き死神と恐れられる結果となった行為が、醜いとでも。
「やっぱり、大丈夫じゃないな…」
「えっ、」
ジノはスザクの唇を塞いだ。二人にとって初めての行為だった。
唇を合わせるだけの、儀式のようなキス。
ジノの胸を押し抵抗していた腕は、次第に力を失くしていった。
スザクが瞳を閉じた。目の淵から、一筋伝うものがある。
なんてことない。ただのキスだ。
そう自分を叱咤しつつ、感慨めいたものが沸きあがるのを押さえられなかった。
彼が、スザクが、わたしに縋っている。
そんな感覚が浮かんだ。勘違いなのかもしれない。苦労を知らない、深い悲しみの経験のない、上級貴族の坊ちゃんの。
ジノはそうやって自分を皮肉りながら、なお考えられずにはいられなかった。
この暗闇の中のキスの、重要性を。
スザクが潤んだ瞳で視線を向けた。翡翠色の奥には、二人を包む闇より暗いものが在る。
ジノの思い違いではなかった。
そっと、ジノは視線を返す。
まっすぐに、光を湛えて。
安心させるように、包み込むように。たとえば上流階級のお嬢様に接するように、優しい扱いで。
ジノはスザクを見つめる。唇を押しつけながら。
多分、きっと効力はないのだろうけれど、訴える。
彼の闇に対する、否定の言葉を。
彼が欲しいと思っている、肯定の言葉を。
その時何度も何度も、ジノは訴えた。
舌先で伝える強引さを持てぬままに。
*
どうして、こんなことに。
彼の肩甲骨を噛んで、全身の愛撫を施すと、結合したまま同時に果てることとなった。
別に、後悔をしているわけではない。
ただ、疑問なのだ。
ジノは何もしていない。彼の闇は変わらない。
それなのに、求められる。答えてもらえる。
普段の関係は何ら変わらないのというのに。
ジノの難しい顔を見て、スザクは肩で呼吸をしながら彼の方に手を伸ばす。
「大丈夫?」
「んー?」
そのままぐいぐいと胸を引っ張られるので、ジノが体を倒す。
スザクがぎゅ、と抱きついてきた。
「どうした?スザク」
「ジノ」
「ん」
「どこにも、行くなよ」
(繋ぎとめている)
スザクは、ジノがくれた言葉を想起していた。
ジノは言葉の確実性を信用している。
裏切られたことがないのかもしれない。
裏切られても、揺るがないのかもしれない。
だから信じられるのだ。
だから、スザクも、彼に嘘はつきたくない。
この気持ちは、真実だ。
あの暗闇の中で、過去と向き合っていたスザクを引きもどしてくれたのは。
助け出してくれたのは、君だから。
それだけは、事実だから。
「どこにも、行くな」
「うん」
ジノが頷いた。短く、普段通りの軽い調子で。
その当たり前のような答えが、スザクの救いに、現実になる。
スザクが彼に縋りつく。こぼれた吐息が啜り泣きのように聞こえた。
ジノは触れるだけのキスをした。
疑問のままに、不安のままに、それでもなにより彼を想い、彼のために。
優しいキスを、暗闇の中でした。
2008/8/7 終わり
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